20181112日、華文文学の翻訳家として活躍されていた天野健太郎さんが、ご病気のため逝去されました。翻訳を手がけた呉明益さんの『自転車泥棒』(文藝春秋)が、117日に出版されたばかりでした。また、17日には、台湾文化センターに呉明益さんをお招きし、天野さん自らが司会と通訳を務めて、「台湾カルチャーミーティング2018」の第8にあたるトークイベントを開催する予定でした(当日は、天野さんの友人であり、『自転車泥棒』日本語版の版権業務を担当した太台本屋tai-tai booksのメンバーが、天野さんに代わってイベントの進行を務めました。イベントの様子につきましては、後日改めてご報告します)。


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13日に天野さんの訃報を知った呉明益さんは、その日の深夜、ご自身のFacebookに、天野さんを追悼される文章を書かれました。呉明益さんの了承をいただき、その一部を翻訳したものを、以下に掲載します。

 

 

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天野健太郎さんと僕の作品は、切っても切れない縁がある。

 

僕と天野さんの出会いは、2012年に遡る。台北国際ブックフェアの講演を終えたあと、碧君(訳註:元・聞文堂副代表、現・太台本屋tai-tai books店長エリー)が僕の作品に関心があると声をかけてくれた。この時から僕たちは頻繁に連絡をとりあうようになった。

天野さんは僕の作品のために、とても詳しい日本語の資料と試訳原稿を作ってくれた。2013年、白水社と『歩道橋の魔術師』の翻訳出版契約を結び、その一年後にようやく翻訳作業が始まった。当時、碧君を通して天野さんからの質問を受け取った僕は、とまどいを感じた。微に入り細を穿つような質問をぶつけてくる翻訳者に出会うと、たいがいの作家はある種の錯覚に陥る。なぜ翻訳者は僕よりも細かな言い回しにこだわるのだろう? もしや僕の書き方がまずかったせいで、あきれているのではないだろうか、と。

 

彼からのメールはかなりの長文だったが、僕はその一通一通を保存している。そこに書かれた質問をいくつか挙げれば、皆さんにも当時僕が感じた驚き――作品がとても尊重されているという感動をご理解いただけるだろう。

 

彼は僕に訊いた。「(訳註:中華商場は)三階建てのはずなのに、なぜ後ろ側(線路に面した側)の壁には窓が四列あるのでしょう。ひょっとしてある階の部屋の後ろ半分は、二層に分かれていたのですか? (つまりロフト?)下に台所があり、その上に小さめの寝室があったのではないですか? あるいは、ただそちら側の壁に、小さめの窓が四つ配されていただけなのでしょうか? それぞれの部屋には浴室がありましたか? それとも簡単なシャワー室でしたか?」 これらのディテールは、訳文には登場しない。しかし中華商場がどのような空間であったかを把握したうえで、より正確を期した言葉選びをしたいのだと彼は言った。

 

一篇一篇の関係性もよく把握していた。「臭乳呆 (舌たらず)」、「阿蓋仔 (ホラぞう)」という名前の人物が複数の物語に登場するが、物語によって職業が違う。これは同一人物なのか。あるいは別人で、単に当時よくあるあだ名だったのかと訊かれた。彼はこんな質問をして申し訳ないと(おそらく自分が著者の創作権を侵害していると感じたのだろう)断りながら、僕にこう釈明した。「失礼ながら(僕も含めて)日本の読者はとても細かいので、編集者もきっと気にすると思います」

 

時にはあきれるほど細微な点にまで話が及び、たとえばU2Bonoは禿げているか、あるいはちょっと髪が後退しているだけだと思うか、僕の見解を求められた。禿げの程度については、中国語においてはさほど重要ではないように思うが、日本語ではかなり細分化しているようだ。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』でも、「僕」と笠原メイが銀座において禿げの路上観察を行い、「松、竹、梅」の三つにレベル分けしていたことを思い出す……。

 

今あの頃のやりとりを振り返ってみても、いわく言いがたい感動を覚える。

 

『歩道橋の魔術師』は、日本で好評を博した。二十あまりの書評が出たし、取材も多かった。そのすべてで天野さんが通訳を務めてくれた。彼は時折、僕のことを香港映画『インファナル・アフェア』に登場するヤクザみたいだと、冗談交じりに紹介した(たぶん僕が黒い服ばかり着るからだろう)。僕と彼の個人的なお喋りは、時を重ねるにつれフランクになっていった。

 

翻訳に値する台湾の作品はどれか、彼に訊かれたこともある。ちょうど『Pen+』の台湾特集が作られている時で、僕たちは台湾文学についてそれぞれの見解を交換しあった。この時もまた、ひとりの日本人がこれほどにも深く台湾文学を理解しているということに、僕は心底驚かされた。彼の言葉の端々からは、切実な熱意が伝わってきた。

 

その後も僕は度々日本を訪れたが、通訳はいつも天野さんだった。僕たちの共同作業はどんどん円滑になり、僕が言葉を切るのとほぼ同時に、天野さんが口を開くようになった。あるいは僕がどんなことを話すか予め知っていたかのように。迅速で流暢な通訳のおかげで、僕は聴衆の表情や反応をはっきり感じることができ、次に何を話すべきか考えるのにとても助かった。

 

あるイベントが終了したのち、今回のトークは大成功だった、みんな笑うべきところで笑い、感動すべきところで感動してくれたと、彼は僕に言った。それはひとえに君の通訳のおかげだと、僕は答えた。

 

たしか三年前だった。イベントのあと、僕は太っ腹なふりをして、天野さんと碧君に、ご馳走したいからカードが使える店を紹介してほしいと頼んだ。お恥ずかしい話だが、実はその時僕は日本円をあまり持っていなかったのだ。天野さんは言った。そんな必要はないよ、ラーメンが好きなんでしょ? 一緒にラーメンを食べよう、と。その夜、僕と碧君、そして天野さんは、新宿の近くにある名もない店で一杯のラーメンを食べ、およそ祝賀会らしくない祝賀会を催した。

 

その席でふたりは、僕の作品を日本の大手出版社に紹介したいと言ってくれた。まず『自転車泥棒』、続いて『複眼人』、それから他の作品。天野さんには日本の読者の好みなら熟知しているという自負があり、一冊目はどうしたって『歩道橋の魔術師』でなければならない、それでこそ読者に僕を印象づけられると言った。

 

一年少しあと、僕は「文訊」(訳註:台湾の文学雑誌)に招待され、他の作家たちと再び日本を訪れた。この時、文藝春秋とKADOKOWAから僕の作品に関心があると表明があったが、まだ公にはできなかった。日本滞在中、他の出版社からも、「最高の翻訳者」に僕の作品を翻訳させたいと、水面下でオファーを受けた。さらには、台湾でも未刊行の次回作を予約したいという申し出もあった。僕は謝意を表しながら、心の底では、僕の作品にとっては天野さんこそが「最高の翻訳者」であり、「信頼に値する翻訳者」であると思っていた。

 

しかしその時の座談会における天野さんの発言は、一部の人々の不興を買うことになり、その意図は曲解されてしまった。

 

天野さんと聞文堂は、日本語に訳された台湾文学は、メジャーな市場に入ることができず、学術界の交流のみに留まっていると、早くから感じていた。だから翻訳した作品をどうにかして読者の目につくところへ引っ張り出すために、文芸誌や評論、各種メディアに売り込もうとした。天野さんはスピーチのなかで、そういう自分の仕事のやり方を、「ビジネス」という言葉で以て表現した。

一方で、天野さんは自分の訳に絶対の自信を持っている人でもあった(それは彼が大変な手間を惜しまなかったからだ)。翻訳者は作家の黒子に過ぎず、どんなにいい訳をつけようが、読者はそれを作家自身の腕によるものとしか思わないと、彼はこぼした。しかも一度失敗すれば、作家ではなく、翻訳者が、非情なマーケットに向き合うことになるのだと。

 

僕は天野さんの人となりを知っている。だから彼の発言を少しもおかしいとは思わなかった。それどころか、あれはめったに見ない「真摯で率直」なスピーチだったと思っている。しかし現場にいた人たちのなかには、彼を傲慢で軽率だと感じた人もいたらしい。

 

台湾文学を翻訳するには、まずマーケットの残酷さにまるで理解のない出版関係者と向き合わねばならない。天野さんは長年、仕事で台北と東京を行き来していたから、両者の出版市場における違いと問題の所在をよく理解していた。

今でも覚えている。あの年の訪日プロモーションで、僕はたくさん収穫があったと思う一方、個々の出版社との会議のなかで、日本の出版社は台湾文学を系統だって紹介する気はさらさらないのだと感じ取っていた。日本で大きく売れるわけでもない台湾文学を広めようとしていた天野さんも、こういう慇懃な態度で門を閉ざされるような目に度々あってきたのだろう。だからこそあの講演で、彼は台湾文学の翻訳者が置かれた現実を「率直に表現」したのだが、それがある種の人にとっては気に障る話だったのではないだろうか? だから僕はこの個人的な場所で、天野さんの代弁を試みている。

 

その後、天野さんの訳文はよくないという噂を耳にした。僕はまったく日本語を解さないが、日本の編集者はそうではない。天野さんの訳した『歩道橋の魔術師』は、「日本翻訳大賞」の最終選考まで残っただけでなく、本屋大賞の第三位を獲得した。翌年には『1367』が、ミステリー小説に与えられる大きな賞をふたつ獲った。これはすなわち、日本において彼の訳文が、業界人のみならず、広く一般の読者にも買われているということの証左だ。あの批判の根拠はいったいどこにあるのだろうか?

 

それからすぐ、文藝春秋と『自転車泥棒』の、KADOKAWAと『複眼人』の日本版翻訳権を契約したと、聞文堂から連絡があった。どちらも天野さんが翻訳者に指名された。天野さんは僕に、まず今年(2018)中に『自転車泥棒』を、翌年(2019)『複眼人』を訳すと言った。この時、彼がすでに膵臓がんの手術を受け、前とは違うからだになっていたことを、僕はまだ知らなかった。ただ痩せたことだけはわかったけれど、彼はダイエットに成功したと冗談めかして言うばかりだった。

 

いちばん残念なのは、僕にとって日本の大手出版社に進出する初の作品となる『自転車泥棒』が、(訳注:台湾政府文化部による)海外翻訳出版の助成金の審査に通らなかったことだ。これには台湾で著作権エージェントや翻訳にたずさわる友人たちも、みな納得していない。天野さんが僕に恨みつらみをこぼすことはなかったが、負けん気の強い彼のことだ、翻訳で見返してやろうと、いっそう仕事に打ち込んだに違いない。

 

数ヶ月をかけ、はたして天野さんは15万字に及ぶ翻訳原稿を完成させた。9月、僕は彼から翻訳時の疑問点について連絡をもらい(この時すでに二校に入っていた)、質問に答えるのに大汗をかいた。

 

彼は僕にミャンマーの地名について尋ね(僕の中文からは探しあてることができなかった)、自転車の部品ひとつひとつについて写真を使って確認し、ひいては樹の形についてまで写真を送ってよこした。ただ「雰囲気を把握する」だけのために。彼の質問は続く。九九が書かれたテーブルつきの折りたたみ椅子とはどんなものか、中山堂のアーケードとはどこを指すのか……。僕は旅の途中だったが、資料を探しては返信することを繰り返した。そして、11月に東京で彼に会ったら、どんな風に感謝を伝え、どんな風に謝ろうか考えていた。

 

僕の作品にしてくれたことについて感謝し、よりにもよって、台湾文学に対する敬意がないと彼を批判する人が台湾にいることについて、謝ろうと思っていた。彼はあらゆるジャンルの台湾文学を翻訳し、紹介することに尽力していたからこそ(彼がすでに若手作家の作品を翻訳しようと動いていたことを僕は知っている)、そこに横たわる問題点を指摘するに至ったのだが、結果としてそれが攻撃とみなされてしまった。

 

(訳注:11月)16日から18日の『自転車泥棒』訪日プロモーションの通訳は、すべて天野さんと決まっていた。重い病を患っていたにもかかわらず、天野さんは休もうとはしなかった。彼は最後の最後まで、僕の作品のために仕事をしてくれた。

 

今朝早く、碧君より、天野さんが亡くなったとの報せを受けた。僕は天野さんのいない東京へ行かなければならない。途端に不安になった。僕の耳元で中国語に通訳してくれる彼の声を、また聞きたいと思った。あるいは、あの長い訳者あとがきに何を書いたのか、彼自身の声で説明してくれるのを聞きたかった。

 

天野さん、日本で出版された『歩道橋の魔術師』と『自転車泥棒』は、どちらも僕と君の合作だ。僕は(訳注:台湾文化センターでの)講演内容を変更し、翻訳の時に交わされたふたりの討議について、少し時間を割いて話そうと思う。

 

 僕は君が間違っていたと証明する。人々は、翻訳者を忘れはしない。

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(訳:中村加代子)