台湾の読書人の間でとても評価の高い、吳繼文の長編小説『天河撩亂』を読みました。 
    (実は、台中の独立書店「新手書店」店長の鄭さんから推薦され、そこで購入したのですが、2年ほどしっかり寝かせてしまったものです。「新手書店」については→ こちら )

天河撩亂_書影


 時澄(シーチェン)は、叔母の容体が悪化したとの知らせを受け、自らの病身を押して東京築地の国立がんセンターに駆け付ける――。
 
 台湾中部の小さな街で歯科診療所を経営する厳格な父と、社交的で子供に過保護な母によって形作られる時澄の家は、外から見れば裕福で幸せな家族だった。だが時澄が10歳のある日、父は突然、時澄だけを連れ、逃げるように日本へ渡る。父の姉、東京に長年ひとりで住む伯母・成蹊に預けられた時澄は、奔放で率直な性格の彼女に親しみを持ち、伯母も時澄を友人のように扱い、可愛がる。

 学習院高校に進学した時澄は、早稲田大学の図書館やイベントに出入りするうち、学生運動に失望して学業に戻った大学院生、鴻史と知り合い、文学や映画の薫陶を受け、更に親密な関係になる。高校の卒業を前に、このまま日本にいるか、台湾に戻って進学するか迷う時澄に、鴻史は再び学業を中断し、旅に出ることを告げる。伯母は、2人の新しい旅立ちの記念に、自身の経営するナイトクラブへ招待する。そこで時澄は、今まで知らなかった伯母の過去と秘密を知る――。

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 1998年に発表され、当時の台湾で大きな反響を起こし、台湾の「同志文学(同性愛文学)」の金字塔の一つとされる長編作品です。初版が時報文化から刊行されたのち、長いこと絶版状態になっていたのですが、2017年に「20周年記念復刻版」として寶瓶文化から再刊行されました。

 60年代から90年代へ、東京と台湾を行き来し、更には19世紀末に中央アジアの「さまよえる湖」を探査したスヴェン・ヘディンの物語を挟みながら、同性愛者である青年・時澄の魂の彷徨を描きます。

 現在の台湾は、2019年にアジアで初めて同性婚が合法化されるなど、LGBTへの偏見が他国に比べて少ない社会が実現されていますが、本作が最初に発表された1998年はまだここまで先進的ではありませんでした(もちろん、作品中に描かれる1970年代から80年代の台湾はなおさらでしょう)。

 その中で発表された『天河撩亂』は、同志文学ではありますが、単純に同性愛者としての主人公の苦悩を描く作品ではありません。

 主人公・時澄と、彼をとりまく家族や友人、恋人たちそれぞれの人生の葛藤をも丁寧に描く、一種の群像劇のようでもあります。
 また、作品の背景となる、台湾の伝統的な大家族の中で絡み合う人間関係、戒厳令下に思想犯とみなされることに人々が怯えていた時代の空気、さらには70年代の学生たちが見た東京の気分などをも、静かな筆致で描き出していきます。
 (映画で言うと「台湾新電影」+「ATG」みがあると思います)

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 著者・吳繼文は、台湾における吉本ばなな作品の翻訳者です。
 著者は吉本作品を通じ、「平易な言葉遣いで書かれた小説でも、人の心を動かすことができる」ことを発見したそうです。
 90年代までの台湾文学は、純文学至上主義的な傾向があり、技巧に凝り、高尚な表現を多用したものが良い作品であるという価値基準がありました。外国作品を翻訳することで、文学の新たな可能性に触れた著者は、文学性と可読性、そして物語性をバランスよく備えた佳作である本作を書きました。特に人物たちのテンポよく、ウィットの効いた会話まわしのセンスは、初期の村上春樹作品を思わせる魅力があります。

 本作品は、その一部の章「玫瑰是復活的過去式」の日本語訳が、「天河撩亂――薔薇は復活の過去形」として、2009年に作品社から刊行された『台湾セクシュアル・マイノリティ文学3 小説集――新郎新“夫”』に収録されています。
 しかし本作品は物語全体の構成の上手さを味わいたい作品でもあるので(事前情報ほぼ無しで読んだSは、半分くらいのところで結構ぶっ飛びました)、作品全体としての翻訳出版が待たれるところです。
 


【著者】 吳繼文(Wu Jihwen / ご・けいぶん)
1955年、台湾中部南投県に生まれる。東呉大学文学部卒業、日本・広島大学哲学修士。「聯合報」副刊の編集者、時報文化出版の総編集長、台湾商務印書館の副総編集長を歴任。編集者時代から新聞、雑誌などに文章を発表する。1996年長編『世紀末少年愛読本』(時報文化)。1998年長編『天河撩亂』刊行(時報文化)。翻訳作品に、吉本ばなな『キッチン』『哀しい予感』『TSUGUMI』『白河夜船』『N・P』、河口慧海『チベット旅行記』、藤原新也『印度放浪』、高村光太郎『道程』、中沢真一『モカシン靴のシンデレラ』、井上靖『わが母の記』などがある。

『天河撩亂』吳繼文/寶瓶文化/1997


(店員S)