香港のミステリー作家6人が、
”わたしたちの香港”、”香港らしいもの”を描きこんだ短編集。


『偵探冰室』 2019年 香港・星夜出版
仮題:探偵氷室
著者:陳浩基、譚劍、文善、黑貓C、望日、冒業
書影

「『氷室』とは、1950、60年代の香港で流行っていた喫茶店のようなものだ。イギリスのアフタヌーンティー文化の影響を受け、ミルクティーやコーヒー、サンドイッチなど西洋式の軽食や、氷あずき、菠蘿油パイナップルパンに厚切りバターを挟んだもの)などの香港式スナックを提供した。ファストフード店の流行とともに氷室は数を減らしていったが、今でも香港庶民文化の重要な一部分である」 
           (編者・望日氏のまえがきより抜粋)


【収録作】

「重慶大廈的非洲雄獅」
(重慶マンションのアフリカライオン) ―― by 譚劍
重慶マンションに身を寄せる外国人にボランティアで広東語を教えている簡惠思は、若い警察官Maxに、マンション内のアフリカ料理店で働く男Tauを保護し、脱出させてくれるように相談する。Tauは東アフリカ某国の大学教授だったが、民主化運動の指導者として軍事政権から命を狙われ、香港に身を隠し、他国に出国する機会をうかがっていた。最近、Tauの首に懸賞金がかかり、暗殺団が香港に入ったという噂が流れたのだ。Maxのチームと簡惠思は、迷路のように入り組んだ重慶マンションから、秘密裏にTauを逃がす計画を練る。

「李氏力場之麻雀移動事件」(李氏パワーの麻雀牌移動事件) ――by 文善
 大型颱風が近づく土曜の午後、阿誠が会社の近くにこっそり買ったマンションに、同僚3人が集合した。颱風、4人と言えば、麻雀。新居祝いも兼ねて2日間たっぷり卓を囲み、月曜の朝、交通の大混乱をしり目に、余裕で歩いて出社すればいい。ところが主役であるはずの阿誠は、やたらと不器用な阿栄と阿明にいら立たされ、しかも負け続け。12荘を数える頃には場の雰囲気は険悪に。最後に阿誠に勝たせてなんとか場を収めようとするが、阿栄がまた手を滑らせ、九筒の位置を皆が見てしまう。この時、風はさらに強まり……。

「二樓書店」(老ビル上の独立書店) ――by 陳浩基
旺角、西洋菜街。築60年の5階建てビル「順風楼」の最上階にある創業40年の老舗独立書店「薈蘭書坊」。店主の英(イン)姐さんは、20年前に創業者からこの店を譲り受け、一人で店を守ってきた。ある日、出勤してきた英姐さんは、夜の間に誰かが鍵を開けて店に入った形跡があることに気が付く。何も盗まれてはいなかったが、店の中で何かを探していたようだ。英姐さんは、2,3年前、中国での政治的禁書を扱う独立書店の店主が失踪した事件を思い出す。「薈蘭書坊」でも、台湾の出版社が出した中国の政治を批判する書籍を扱っていた。不安を抱く英姐さんのもとに、大手デベロッパーから、家賃は10年間不要にするのでショッピングモールに移転しないか、との誘いが入る……。

「太陽黑子少年少女」(太陽黒点少年少女) ――by 黒猫C
香港動漫節(HK Anicom)のコスプレ会場で、オンラインゲームで知り合った5人――終末世界サバイバルファッションの少年、鹿撃ち帽で名探偵に扮した英国帰りの少女、巫女スタイルの不思議系女子、お姫様に変身した男の娘(こ)、その弟で全身黒タイツの「犯人(の犯沢さん)」コスの小学生――が、初めてのオフ会を開く。最初はイベントを楽しんでいた5人だが、立て続けに事件が発生。犯罪予告手紙が発見され、トイレで若者が人事不省になり、同人ブースに展示されていたアクリルケースが突如発火、そして正体不明のドローンが限定フィギュアを盗み去った。少女探偵は、自慢の鋭い直感で事件の謎を解こうとする。

「來自地下」(地下から来た者)  ――by 冒業
 地下鉄港島線の終点、柴湾に到着した車両に、心臓をナイフで刺された男の死体が座っていた。鄭宜家警部と、かつての同僚で今は探偵として働くAlexが事件を調べ始める。男が持っていたのは、西鉄線の天水圍から隣駅の朗屛までの切符だった。男の携帯のメモから、その日の夕方、男は3人の人物に合っていたことが判明する。それらの人物と男は「初乗り額の切符を買ってお互いに交換し、乗車料金を浮かせる」キセル行為を行っていた。3人に話を聞くうち、男は数か月前、地下鉄車両内でフルーツナイフでリンゴを剥き、皮を散らかしていたことを他の乗客に咎められ、逆ギレして周囲を罵りながらナイフを振り回している動画がYoutubeで話題になっていた人物だということがわかる……。

「李氏力場之欠交功課事件」(李氏パワーの宿題未遂事件)  ――by 文善
 中学4年生(高校1年生)の夏、クラスに中国本土からの転校生が来た。広東語もままならない彼の、父親は政府研究機関の高職にあり、母親は風力発電や気象テクノロジー関連への投資ビジネスをしていて、彼も時々手伝うことがあるらしい。あっという間に「高幹(高級幹部)」とあだ名がついた転校生は、いいやつだったが、なぜか颱風休みになると宿題をやってこないことが続いた。彼の家族が香港天文台(気象台)の所長と一緒に映る写真を雑誌で見た
‟僕”は、高幹一家が政府と結託して、颱風を操作する技術を開発し、それを売り出そうとしているのでは?と思いつく。

「豪宅」(豪邸) ――by 望日
ある豪邸で起きた若い女性の殺人事件。あっさりと犯行を自供した容疑者は、被害者と同じ豪邸に住んでいた。だが2人は親族関係でなく、その間にはトラブルもなく、容疑者は被害者のことを妹のように思っていたという。他人である2人は何故、同じ「豪邸」に住んでいたのか? 容疑者は何故、女性を殺したのか……? 現代香港の闇が浮かび上がる。


*     *     *

【概要】
 本書が刊行されたのは2019年7月。折しも、逃亡犯条例に抗議する香港市民のデモが本格化し始めた時期だった。本書に収録の作品は、重慶マンション、颱風休暇につきものの麻雀大会、二楼書店(雑居ビルの上階にある独立書店)、豪邸と狭小鳥籠部屋など、それぞれ香港を象徴するモチーフをテーマにしているが、実はそれだけではない。香港に落ちかかる暗い影と、それに対する香港人が感じる恐怖や、そこへの抵抗の意志が込められてもいる。

 次の戦いに向かう民主活動家の暫時の逗留所となった重慶マンションから、香港市民の手で希望の灯が放たれる。志を持って小さな書店を守ってきた店主に思想弾圧の恐怖が忍び寄る。中国本土の技術や資本と香港政府が結託して香港市民を搾取する。そして「犯罪者」は、口封じのために中国本土へ送られる……。

 エンターテインメント作品でありながら、それまで愛してきた自分たちの香港の在り方が、巨大なものの力で暴力的に変えられていくことへの香港人の戸惑いや反発が、香港人作家たちの筆によってリアルに描きとめられている。

「『探偵氷室』は、この時代の香港人の生活、香港人の考えていることを記録し、同時に香港の推理小説の創作と閲読の文化を広めていければ、という一つの試みだ」

「氷室が、すでに香港文化の一部分であると言っていいのであれば、法治と自由は、香港人が長い間、大切にし、重視してきた、香港社会における共通の価値である。我々は決して、軽々しく放棄してはいけないのだ」
(ともに編者・望日氏のまえがきより抜粋) 

【著者紹介】 

陳浩基 (ちん・こうき/チャン・ホーゲイ)
1975年生まれ。香港中文大學コンピューターサイエンス科卒。台灣推理作家協會海外会員。作品には、日本に華文ミステリブームを起こした『13・67』(日本版2017年文藝春秋刊)の他、第2回島田荘司推理小説賞受賞作『世界を売った男』(原題:遺忘・刑警、日本版2012年文藝春秋刊)、『ディオゲネス変奏曲』(原題:第歐根尼變奏曲、日本版2019早川書房刊)、『網內人』(日本版2020年文藝春秋刊)他、多数。

譚劍 (たん・けん/タム・ギム)
ロンドン大学コンピューター情報学科卒、英国ブラッドフォード大学MBA修士。プログラマー、システムアナリスト、プロジェクトマネジメント等に従事。台灣推理作家協會海外会員。2010年、SF小説《人形軟體》(人形ソフトウェア)で第1回全球華語科幻星雲獎長編小説賞を受賞。台南を舞台にした怪異小説『貓語人』シリーズ(台湾・蓋亜文化)刊行中。その他、文学作品の《黑夜旋律》、SF短編小説集《虛擬未來》(倪匡科幻獎佳作受賞)、《1K監獄》、《免費之城焦慮症》など作品多数。

文善 (ぶん・ぜん/マン・シン)
香港生まれ、カナダ在住。灣推理作家協會海外会員。2013年『逆向誘拐』で第3回島田荘司推理小説賞受賞(日本版2013年文藝春秋刊)。同作は2018年に黃浩然監督で映画化。その他の作品に《輝夜姬計畫》《店長,我有戀愛煩惱》《你想殺死老闆嗎?》など。

黑貓C (くろねこC/ハックマウC)
香港理工大学コンピューターサイエンス及び情報エンジニアリング学科卒。2015年からネット上でSF小説、ファンタジー小說などの連載を開始。2016年武俠小說《從等級1到武林盟主》シリーズでデビュー。2017年、数学をテーマにした推理小説《歐幾里得空間的殺人魔》で第五回「金車・島田莊司推理小說賞」受賞。その他の作品に、推理小説《崩堤之夏》、ファンタジー小説《末日前,我把惡魔少女誘拐回家了!》シリーズなどがある。

望日 (ぼうじつ/モンヤッ)
香港科技大学土木及び環境エンジニアリング学科卒。土木エンジニアリング学哲学修士。創作への夢が忘れられず、香港政府機関のキャリア官吏の職を棄て、専業作家兼編集者に。2015年、星夜出版を創立。香港作家の小説、散文などを刊行するほか、自らも作家として作品を発表。著書に、文化観察《有冇搞錯!我畀咗成千蚊人情去飲,竟然九道菜全部都係橙》、ファンタジー小説《等價交換店》《時間旅行社》などがある。

冒業 (ぼうぎょう/モウイップ)
90年代生まれ。香港中文大学コンピューターサイエンス科卒。ソフトウェアエンジニアとして働く。小説創作の他、香港の新聞、雑誌、ウェブメディアなどで評論を発表。推理小説作品に、「古典力學的象徵謀殺」(《亞斯伯格的雙魚:第16屆台灣推理作家協會徵文獎》収録)、「所羅門的決斷」(《偵探在菜市場裡迷了路 第18屆台灣推理作家協會徵文獎作品集》収録)などがある。台湾の小説ウェブメディア「鏡文学」上で、《千禧黑夜》を連載中。


【データ】
仮題:探偵氷室  
著者:陳浩基、譚劍、文善、黑貓C、望日、冒業
出版社:星夜出版
カテゴリー:ミステリー、エンターテインメント小説
刊行:2019年7月
長さ:312頁、中国語で約11万4000字
香港原書情報:https://www.starrynight.com.hk/books/48

※蓋亞文化より台湾版が刊行。

※続編『偵探冰室・靈』(2020年7月)も刊行済み。
(陳浩基、譚劍、莫理斯、黑貓C、望日、冒業)


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